彩発見プロジェクト

ダ埼玉、ク埼玉。武蔵国と呼ばれたのも今は昔。歴史の中に埋もれていった埼玉県。でも、安心してください。埼玉の埋もれた魅力、私たちが掘り返します!!      魅力度くださいたま……

隠れた伝説の男

知られざる伝説f:id:saihakken_pj:20200805190833j:plain

この男を知っているだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに編集者の私はもともと全く知りませんでした笑

(あと銅像の下に書いてあるやんと思った人は、天才です)

 

 

 

答え 井澤弥惣兵衛(いざわ やそうべえ)

この男のちょっとした伝説を語ることにするよ。

 

1.弥惣兵衛伝説

1663年(有力説)、紀伊国名草郡溝ノ口村(現和歌山県海南市野上新立石)で、農家の子として生まれる。

 

8歳の時、河川開発と新田開発の自説を大人たちの前で披露する。また、生家と氏神の野上八幡宮が同じ高さにあったということが理由で、生家から引っ越したと言われている。そのようにして、野上八幡宮よりも低いところに引っ越した。

 

 

 

 

ちなみに

実際行ってみると、あんまり引っ越し前後の家の高さは変わらないそう笑。

 

こういった逸話は、弥惣兵衛の測量の才能や、河川開発の才能を教えてくれ、数理的才能は、

 

 

黒澤山の天狗ドドン

 

 

から教わった、と言う。

 

 

 

 

(なんかかっけぇっす先輩)

 

 

 

 

宗教的感性のあった人物でもある。

成人して以降は、農業土木の専門書や数学の図書を読破し、父に従って治水・利水の実践を積んだ。

 

2.農家から藩士へ!

1690年(27歳)のとき、紀州藩主(徳川光貞)に召し出され、紀州藩になる。士農工商身分制度が確立されていた江戸時代において、例を見ない昇進である。彼はここで、土木技術者として活躍する。

 

 

 

(やっぱり先輩さすがっす!)

 

 

 

しかし、なぜ彼はこのような大躍進を遂げたのか。当時紀州藩では財政難に陥っていたため、農業土木に秀でた弥惣兵衛の評判を聞いて、彼を召したのだという。しかし、弥惣兵衛は紀州の地勢をすべて知り尽くしていたわけではない。だから、1696年に紀州藩内で「利水・治水の達人」で評判の地方巧者、大畑才蔵勝善にあって、力を貸してもらえるようにお願いをする。そして二人は手を組み協力して、藤崎代用水、小田原代用水、亀池などを建設した。

 

弥惣兵衛は指示役であったため、その多くは大畑才蔵の業が光る。見沼代用水建設に役立った、いわゆる紀州流という開発法は、大畑才蔵に影響を受けたと言われている。

 

3.享保の改革と弥惣兵衛

1722年、逼迫した財政状況に対応すべく、幕府は「上米の制」と呼ばれる法令を発した。しかし、米の生産が追い付かなくなることが見越されると、米の収穫増を目指して新田開発が求められるようになった。

 

そこで、当時の将軍、徳川吉宗は弥惣兵衛に声をかける。

 

 

 

 

ざわざわ…

 

 

 

 

なぜ吉宗は、弥惣兵衛を知っていたのか。実は1705年から1716年までの間、吉宗は紀州藩の藩主を務めていたのだ。彼が弥惣兵衛の事を知っていたとしても、不思議ではないだろう。また、弥惣兵衛自身の、河川改修・新田開墾の能力を買っていただろうし、吉宗自身、洗礼や格式にとらわれない政治をする人物でもあったため、農家の出である弥惣兵衛に声がかかったのだ。1723年、弥惣兵衛が60歳の時、旗本になった。

 

4.見沼の地を踏む弥惣兵衛

弥惣兵衛が関東で自ら関わった、大規模新田開発(飯沼新田開発)の最初は1725年、弥惣兵衛62歳の時である。その年の9月、従者を連れて初めて見沼の地に訪れた。その目的は大きく二つあり、一つは見沼の見分、もう一つは、伊奈氏と面会をするというところにあった。

 

 

 

 

(ん?    伊奈氏との面会?)

 

 

 

 

伊奈氏と面会、とは果たしてどういうことか。もともと見沼の地は溜井式の田畑(見沼溜井)であったのだが、この溜井式によって見沼の治水にその名を挙げたのが伊奈一族であった。(この溜井式を関東流と称しておく。)

 

一方弥惣兵衛は用悪分離式の紀州流であり、溜井は干拓して田畑面積を増やすことを計画していた。すなわち、弥宗兵衛がこの見沼の地を開発するということは、伊奈氏が成し遂げた溜井式新田に大幅な手を加えることを意味していたのだ。弥宗兵衛としては、伊奈氏にきちんと許可をもらう、ないしは報告をすることが筋だと考えたようだ。

 

伊奈氏と面会することになった弥宗兵衛。後の話になるが、見沼代用水開削の最中、名主らに対して開削をしないようにと圧力をかけたことが分かっている。つまり面会時、二人の間に合意は見られなかったのだ。

 

でも、伊奈氏との面会の後、弥宗兵衛は氷川女体神社に訪れて、溜井干拓成功を祈願して、万年寺にて一泊した。

 

 

 

 

(大丈夫なのか?笑)

 

 

 

 

5.開削!見沼代用水!

1725年の見沼見分の後、弥宗兵衛は勘定吟味役に抜擢。そしてその二年後の1727年には勘定奉行となった(ただ、1年後には勘定吟味役となる。勘定奉行になるには、年を取りすぎていたのだ。)。そして同年の秋、見沼代用水工事に着手する。

 

 

 

 

だが、この工事の着手に至るまでもひと悶着あった。確かに、見沼溜井が完成してからも深刻な水不足や、隣町との水争いに悩まされていたようであったが、それでも関東流の新田で満足していた者たちからしてみれば、伝統の伊奈流に手を加えることには多少の抵抗があったようである。これ以上悲惨な状況にはなりたくない、おそらくこう思ったであろう。

 

しかし、弥宗兵衛はこの代用水開削案を発表して、見事に説得したのだ。

 

 

 

 

 

(さすが! パチパチ!!)

 

 

 

 

 

したがって、この代用水開削には15の村が協力(17の村は反対)した。また、100町歩を交換条件に3人の町人(しかし後にこの100町歩の場所が定まらず、最終的には江戸の商人であった鯉屋の山口屋藤佐衛門に300町歩が渡った)も、この事業に加わった。このように代用水開削は、村請と町人請けによって急ピッチで開削が始まり、延べ

 

 

90万人 (強い)

 

 

(当時の江戸の人口に匹敵)がこの事業に関わった。

 

 

 

(かなり大規模だね)

 

 

 

 

代用水開削の工法は大きく3つ

・片面崖の「切土・盛土」方式

・平地の「築越

・台地の間を通す「切り通し

 

 

 

これらによって、利根川から芝川まで、長い距離開削するのだが、これをいくらかの距離に区切って分担して開削させたというのだから驚きである。これはつまり、見分の時点で測量に大きな誤差があれば取り返しのつかないことになることを意味する。

 

しかし、弥宗兵衛はほとんど誤差を出さなかったという。この驚異の測量技術は、実は大畑才蔵譲りであった。

 

 

 

 

紀州、おそるべし! ドドン)

 

 

 

 

 

また、開削路の途中では、元荒川・綾瀬川を通過しなければならなかった。そこで、前者に対しては伏越(川の下をくぐる)で、後者には掛戸(川の上に通す)で対応したことも有名。

 

 

 

 

(そんなことできるんだ… すごいな笑)

 

 

 

 

見沼代用水はたったの半年で完成した。1728年の事である。完成した新田の所有権は幕府に帰属し、これを村が買い取るという形をとった。3年間は非課税という約束で買い取った新田は、その代わりに地代徴収という形で賄った。要は、米の収穫が安定するまでは、金銭で払うことができるようにした、ということである。こうして協力した村々は得をした。一方協力しなかった村は……

 

 

 

(あ~あ 可哀想に…)

 

 

 

6.見沼通船掘 代用水が運搬用の水路に様変わり!

さて、この代用水、実は船を通して運搬用の水路に活用できるんじゃないか、という話になる。というのも、この代用水の東端から芝川までそこまで距離が離れておらず、芝川までつなげれば、芝川からは墨田川へとつながって江戸まで至るからだ。しかし、水平距離390mに対して3mの落差を船が通るには急であり、問題であった。

 

 

 

 

(そういうアトラクションあったら楽しそう!)

 

 

 

 

1731年、この問題を解消する形で見沼通船掘は完成した。実際にその動態を確認できるものとしては、

わが国最古の閘門式運河である。

春から秋にかけては水田用の水路として、そして秋から春にかけては運搬用の水路として使い分けるこの水運は、他に例を見ない。そして、この通船掘が完成したのは、1728年から三年後、つまり、地代徴収が終了して、初めて年貢米を見沼新田から納める年である。さっそく代用水に船を通して、江戸までコメを運んだわけだが、弥宗兵衛はここまでを見越していたという。この船の通船権は、新田開発で活躍した高田茂右衛門、鈴木文平の兄弟に、それぞれ与えられた。

 

7.弥宗兵衛、安らかに眠れ

この見沼代用水開削の後も、弥宗兵衛は活躍する。とくに木曾三川分流計画は有名だ。しかし、彩発見プロジェクトとしては、見沼代用水について語ることができたので満足である。また機会があったときにでも話をしたいと思う。

通船堀完成から7年後、1738年に弥宗兵衛は亡くなった。享年75歳。東京都千代田区の心法寺に葬られる。

 

 

 

 

 🌈チーン

 

 

 

 

 

余談1 弥惣兵衛と見沼の龍伝承

『見沼の竜神

大日堂というところで、沼干拓に向けた準備を進めていたある日の晩、美しい女が訪ねてきてこう言った。「99日間、干拓をやめてほしい。その間に住処を別のところに移します。」しかし、次の瞬間その女の姿は見えなくなって、「夢か」と弥惣兵衛は思った。そして、気にも留めずに干拓に取り掛かった。しかし始まると、いろいろと困難があって工事が進まなかった。

そうして1か月あまりの時が経って、弥惣兵衛は病気になって床に臥す日々が続くようになった。そんなある日の晩、例の女が枕元に現れて、「その病気は私が治してあげるから、願いを聞いてくれ」といった。そうして夜が明けると、女はいなくなった。それ以来毎晩、女は現れたが、それにつけて病は回復していった。

それから後しばらくして、ある家来が弥宗兵衛の様子を見ようとふすまを少し開けると、「見るも恐ろしい蛇身の女がおり、らんらんたる目を輝かし、耳まで避けた口から深紅の炎を吐きながら弥宗兵衛の体を嘗め回していた。」驚いた家来は失神した。

明くる朝、弥宗兵衛が家来を起こすと、家来は見たことを話した。さすがに肝を冷やした弥宗兵衛がは、片柳の万年寺に詰所を移した。

その後、工事は平穏に進んだが、その間に、次のようなことが起こっていた。ある葬式の葬列が山門を潜ろうとしたとき、突然暴風雨が吹き荒れて、棺桶が宙に舞ってどっか行ったということがおこったのだとか。人々は、見沼の竜神が弥宗兵衛の仕打ちを怨んでやったことだと語り合った。

 

※この見沼の竜伝承がモデルになって、さいたま市のマスコット「ヌウ」が生まれている。

 

 

 

 

談2 第18回東京オリンピック

東京オリンピックに向けて、東京では飲み水の確保が問題になっていた。そこで大臣は利根川から水を引いてくることを提案する。それは、1.安定した水源と、2.取水口の安定、という面から見てのことであった。しかし、そのためには埼玉県を通過しなければならなかったために、利根川から水を引くのは難しいのでは、という懸念もあった。

しかし結局は、弥宗兵衛と同じ発想によって取水口を決定した。しかもその取水口の位置は、弥宗兵衛が選んだ元入と150mしか変わらない上中条というところだった。そうして、この取水口から代用水を経由して東京まで水を引くことに成功した。

代用水を開削した弥宗兵衛の成果、および18世紀の弥宗兵衛と現代とで相通ずる側面が見られる一幕である。

 

渋沢を感じよう!~栄一記念館~

 

埼玉の魅力を掘り起こす!

 

んでもって

また埋めるっっっ!!!!

 

 

ジョークね。

 

 

これが、

 

発見プロジェクト!

 

 

さあて今回も、渋沢栄一ゆかりの地、埼玉県深谷市のリポートをさせていただこうか。

 

ということで、今日紹介するのは~

 

 

渋沢栄一記念館

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渋沢栄一記念館は、栄一のゆかりの品々が展示されている場所なんだ。

 

だが、

 

展示場は撮影禁止…

 

トホホギス…

 

 

だから、そこらへんはぜひ皆様の目で確かめてみてほしい。特に、事前に渋沢栄一について学んでおくと尚の事面白いと思います。以下の記事では、渋沢栄一の生涯について書いています。参考にしてみてほしいです。

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ってことで、

今回は終わり!!

 

 

 

 

 

とでも思っているのかあ?

 

 

 

 

みんな

 

 

 

安心するんだ

 

 

 

 

渋沢栄一記念館には、

もっとすんごいものがあるんだぞい!

 

 

 

 

 

すんごいものとは?

 

 

ヒントを出してあげよう。下の画像をみて、3分間考えてくれ!

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ちゃんと3分間考えた?

 

 

 

答えがすぐ分かったからと言って、簡単にスクロールしちゃあ駄目だぜ。

 

 

 

もしかしたら、巧妙な罠が仕掛けられているかもしれないよ。

 

 

 

いいかい?

 

 

3分考えたかい?

 

 

 

 

いいだろう。

 

 

 

それは…

 

 

 

 

アンドロイド!!

 

そう!なんと、栄一記念館には渋沢栄一アンドロイドがいるのさ。

 

 

それが、こちら↓

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やばくない?すごくない?

 

この渋沢栄一アンドロイドは、1億円かけて作られたんですよ。ちゃあんと動くんだぜ、これ。そして、1億もお金かけるなんて、深谷市の懐は”あったか~い”んだなと思ったそこのチミ!

実はこのアンドロイドのお金は、鳥羽博道さん(ドトールコーヒー作った人)の寄付でつくられているんです!1億円を寄付っすか…。

今回、記念館に行ってみたところ、渋沢栄一アンドロイドは「道徳経済合一説」についての授業をしてくれました。10分くらいの授業でしたが、事前に「道徳経済合一説」について知っていないと、少し難しく感じるかもしれない…。だから、内容は結構ガチなのよ。

 

 

 

さて、今回は渋沢栄一記念館について紹介していきました!まあ、展示場を撮影できなかった分だけ話すこともそんなになかったけれど、渋沢栄一のアンドロイドがいること、意外と知られていないんじゃあないか?

我々も、深谷に行く前にいろいろとゆかりの地を調べていたんだけど、アンドロイドがいるなんて、向こうに行って初めて知ったくらいだからねえ。

 

もし、アンドロイドをみたい!一緒に写真を撮りたい!と思ったら、ぜひ行ってみるといいですよ。記念撮影の時間がありますから!

ただ、授業してくれる時の撮影はNG。

なんでだよおおおおおおおおおお!!!!

 

 

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↑ちなみに、記念館の裏手になぜか栄一の銅像がある。入口に置いときゃあ良かったのにね!

 

 

 

 

愉快な過去記事たち↓

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渋沢を感じよう!~誠之堂~

埼玉県の隠れた魅力を引きずりだす!

 

それが、

 

発見プロジェクト!!

 

 

今回も埼玉県深谷市にある、通称「論語の里」と呼ばれる渋沢栄一ゆかりの地に行ってきた報告をさせていただくぞ!

ちなみに、過去の紹介記事はこちら。

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さあて、今回は……

 

誠之堂(せいしどう)です!

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誠之堂は、渋沢栄一喜寿(77歳)をお祝いして、渋沢栄一が設立に関わった東京第一銀行によって奉献された建物です。めっちゃレンガ造りで、the西洋という感じでシャレていますね。どうせだったら、ここに住みたい。住まわせてくれないかな~。

 

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↑ 右の模様は、「喜寿」って書いてあるんですけど、何となくわかるよね!

 

 

この誠之堂の名前の由来は、『中庸』の中にある「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)からつけたそうです。『中庸』は儒教の経典の一つですが、農民だった渋沢栄一も、幼い頃は儒学を一生懸命勉強していたよね。学問を愛していたのですね。

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↑ 誠之堂の中には、渋沢栄一が使っていた『論語』があります。中を開いてみたかったなあ~。でも、展示品なので触れるのはNG。みんなも気を付けようね!

 

 

さて、

この誠之堂はもともと、東京第一銀行の近く(要するに東京)に作られたんだけど、今は深谷市(要するに埼玉)にあるよね。

 

 

 

 

え?

 

 

 

 

どうしたん?

 

 

 

 

 

そっか!

 

 

 

 

 

家ごと運んだのか!

 

 

 

 

 

って思うじゃん?

 

 

ちがうんだなあ

 

 

 

実はこの誠之堂。一回バラバラにされてるんだよね。つまり、家を分解して運搬し、深谷で再び組み立てたのさ。そう、パズルのようにしてね。

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↑ 見てごらん。レンガの目に不自然な部分があるよねえ。つまり、ここが切断部分ってわけ。

 

 

さて、一見するとシャレオツな西洋(イギリス)風ですが、じっくりと目を凝らしてみると、東洋(日本・韓国・中国)を感じることもできます。なんという贅沢仕様。東洋と西洋が、いまここに相まみえたっっっ!!!

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↑ 例えばこの窓に描かれているステンドガラスは、確かに東洋の民族衣装感がある。韓国のチマチョゴリかな?

 

 

さて、誠之堂の中には渋沢栄一レリーフがあります。

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正面を向いていますね。実はこれ、作られた当初(大正5年)は横に向いていたそうです。3年後に正面に作り替えられてんだとさ。ちなみに、作り直された理由はわかっていない…

まあ僕が思うに、ただの気分なんじゃないかな。

皆も考えてみよう!

 

 

さてさて皆様、今回は渋沢栄一喜寿を記念して作られた誠之堂を紹介していきました!みなさんも是非足を運んでみてください!

ちなみに私達、彩発見プロジェクトが誠之堂に訪れたときは、管理の方にとても感心されてしまいました笑

というのも、若者の多くは、誠之堂の隣にある清風亭を見るんだそう。

 

なぜかって?

 

それはね、

 

 

清風亭は、安室奈美恵の曲のPVに使われていたからなんだってさ。いわゆる、アムラーの聖地なんだそう。だから、若者が来る場合、多くは誠之堂じゃなくて、清風亭を見ていくんだって。

 

「君たちは偉いね」

 

って、管理者のおじさんに褒められてしまったよ。やったぜ。

 

ちなみに、清風亭は東京第一銀行の頭取であった、佐々木勇之助さんの古希(70歳)を祝って建てられたそうです。こちらもきれいな建物なので、ぜひ見学してみてほしい。

 

さて、今回は誠之堂を紹介していきました。次回はどこを紹介しようか。ぜひ楽しみにしていてほしいのである。

ここまで読んでくれたすべての渋沢栄一のファン、通称「シブラー」の皆、ありがとうございました!

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過去記事は↓

 

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渋沢を感じよう!~薬師堂~

 

 

さあて、新1万円札と言えば、この男!

 

 

 

渋沢栄一!!!!(どん!!!!!)

 

 

 

てなわけで、今回も渋沢栄一ゆかりの地をご紹介しようかねえ……。

 

 

今回は薬師堂という場所なんですが、これがまた見つけづらいというか、普通に歩いていると十中八九見逃すようなたたずまいなんですね、これが。

 

ひとまず、そのご写真がこちら👇

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※赤い服を着たこの男は、身長180センチ。大きさがよくわかる。

 

さてこの薬師堂、尊王攘夷に関わった浪士らを思って作られたものなんですが、石碑に書かれてある文を渋沢栄一さんが考えたんだ。

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え?なぜ浪士のために?

 

 

そう思ったそこのあなた!

 

 

君にはこの記事をプレゼントしよう(余計なお世話)

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さて!

 

 

 

さてさて!

 

 

 

 

薬師堂の紹介はこれで

 

 

 

 

お゛し゛ま゛い゛!!!!!

(どん!!!!!!)

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渋沢成分がもっと欲しい方はこちら!

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渋沢を感じよう!~中の家~

 

 

中の家

 

 

これ、なんて読むでしょうか?

「なかのいえ」じゃあないんだ。

 

 

 

正解は、

 

 

 

 

 

」はどっからきたのよ?

 

 

 

まあ、そんなことは置いておくとして、今回も新1万円札で有名な渋沢栄一ゆかりの地を、再発見していこう!

(ちなみに前回は青淵公園を紹介しました。)

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さてさて、まずは中ん家の正門をご覧いただくとしようかねえ!

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おお!渋沢を感じる!

感じるぞ!

(ムスカ大佐風に)

 

 

ここが渋沢栄一が23歳まで過ごしていた「中の家」です。前回紹介した青淵公園の近くにありますが、青淵公園周辺もとい、中ん家周辺は渋沢一族が開拓の一翼を担ったのだそう。ぜひ中の家を訪れる際は、周辺に建っている家の表札をご覧いただきたい。渋沢を姓に持つ家がたくさんあることに気づくはずですよ。

 

この中ん家では、渋沢栄一の先生兼従兄弟である尾高惇忠が、栄一に一生懸命『論語』を教えていました。論語の教えは、後の渋沢栄一に大きな影響を与えることになります。この点は、こちらの記事を読んでいただければ分かるはず!

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さーて、いよいよ、門をくぐって行こう!

 

 

すると

 

 

すぐ左に構えるは、

渋沢栄一

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カッコいい‥

 

そして、本日のメイン!

中の家の主屋(おもや)が、これだあー。

 

 

ワン👉

 

 

トゥー👉

 

 

スリー👉

 

 

 

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出たー!!

まあ、栄一が深谷を出たあとに建てられたものなんだけどね。でも、晩年、深谷に戻ってからは、ここで過ごされたんじゃないかなと思う。

 

ちなみに、中の家の中は、入ることができない‥。

 

 

 

 

しかし!

 

裏手の窓から、

中の家の中を知ることができた!

 

それが、これだあー。

 

 

ワン!👉

 

 

トゥー!👉

 

 

スリー!👉

 

 

 

 

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ザ☆日本家屋

いい雰囲気ですね。住みたいなー、マジで。

 

さて、中の家は主屋だけじゃなくて、他にも色々とあるんですよ!最後に、それらを一気に紹介して行こうかね。

 

土蔵

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米倉だったり、藍玉の貯蔵場所だったら、道具入れだったり、用途によって分けられていたみたい。

しっかし、こんなに土蔵があったことからも、やっぱり渋沢化が豪農だったことが窺える。

 

 

なぞのばしょ
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煉瓦でも焼いていたか?ごみを燃やしていたか?

 

そして‥


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↑主屋の裏手は竹林になってます。とても雰囲気が良いです。栄一がいた頃もこんな感じだったのだろうか。毎日ここを歩けるなんて、羨ましいこと山の如しだぜ!

 

 

さて!今回は「中の家」を紹介しました!栄一のぬくもりを、皆さんは感じることができましたか?それではまた次回。

 

 

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↑なんか、雰囲気良かったので、撮りました。

渋沢を感じよう!~青淵公園~

 

公園の遊具は子供たちの遊び場。

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バスケコートは青年の溜まり場。

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遊歩道はおじいちゃんの散歩道。

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それがここ、青淵公園だ。

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青淵とは?

 

これは渋沢栄一の雅号、いわばニックネームのようなものだと考えておけばよい。

さて、ここ青淵公園の周りには、渋沢栄一ゆかりの地や、渋沢栄一記念館があります。そして、渋沢栄一の生まれた家【中ん家(なかんち)】も、この公園に隣接しています。

青淵」とは、この渋沢栄一の生家の下にがあったからと言われていますが……

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じゃあ、はどこからきたんだろう(笑)

 

この渋沢栄一のニックネームを考えたのは、栄一の先生であり従兄弟でもあった、尾高惇忠(じゅんちゅう)という人物。

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栄一は、尾高惇忠が亡くなって後、この人の記念碑を立てました。それぐらい彼を慕っていたんです。

 

そして、せっかくだからあまり語られない部分についても触れておきましょうかね。ここ青淵公園には、桜植樹記念碑というのがあります。

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栄一は、人間が死ぬときの姿と、桜が散るようすを重ね合わせたといいますが、とにかく栄一は桜を愛していたことが分かります。実は、栄一のゆかりの地の一つに諏訪神社という場所があります。この諏訪神社の隅っこの方の目立たないところに、天皇即位を祝う桜があります。なぜ桜を植えたのか?渋沢栄一さんが桜を愛していたことと関係がないわけがないですよね!

 

さて、今回は青淵公園を紹介していきました。これからも渋沢栄一に関するいろんな所を紹介していきたいと思います!それでは次回をお楽しみに~。

 

 

渋沢栄一の生涯についてはこちら↓

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しぶとく生きた、渋沢栄一

 

 

「埼玉県深谷市

 

 

と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?

 

 

まあ、せいぜい「ねぎ」がいいところであろうか……。いや、そもそも「深谷ねぎ」って、全国的に知られているのかな?そうでないとしたら、もはや深谷市と聞いても、何も思い浮かべられない人が大半であったろう。

 

しかしだ。

 

もう、その時代は終わる(笑)

 

渋沢栄一

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埼玉県深谷市に生まれた、稀代の実業家。そして何よりも、新一万円札になることが決まっている人物。

 

これからは、一万円札の事は、「諭吉」じゃなくて、「栄一」になるということだね。

 

違和感(笑)

 

今日は、この埼玉の誇りであり日本の宝、渋沢栄一の生涯を追ってみたいと思う。

 

 

 

目次

1 vs父

2 vs幕府

3 フランスで修業

4 栄一、資本主義のパパになる

5 さらば栄一、そして伝説へ……

余談 新一万円札になった経緯

 

 

 

1 vs父

 

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

 

栄一は江戸末期、榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)で生まれた。「血洗島」というと、血に染められたヤバイところだと思うかもしれないが、全くそんなことはない。栄一の実家は藍染めと、その原材料の売買により、生計を立てていた。

さて、栄一が13歳の時、祖父と””に行った時のこと。栄一は、藍の目利きバトルを祖父に申し込む。

「さあ、ぼくと、目利きで勝負しませう。」

栄一は勝った。

この一幕が、彼の商才と頭の良さをよく表している。

 

 

2 vs幕府

幼いころから勉学にも励んでいた栄一。特に論語』は愛読書であったそうだ。

さて、栄一が17歳の時のこと。農家出身が原因で差別にあったり、理不尽な目にあった。というのも当時、勉学は農民がするものであるというものではなかったからだ。この一件では渋沢は、当時の江戸の身分制度が間違っていることを思い、幕府に対して、反感を持つようになる。

 

「こんな制度ない方がましだぜ(怒)」

 

そして21歳の時、従兄弟である尾高淳忠の影響で勤労志士と交流する。この尾高淳忠が、栄一の人生のキーマンとなる。また、江戸に出てきたのはこの時であった。

さらに二年が経った。栄一は、倒幕の要・横浜の焼き討ちを志士たちと計画する。当時、長州藩に援助したかった栄一らは、横浜にある高崎城という城を乗っ取りたかったのである。この時にはもうすでに、ゴリゴリの討幕の志士だった栄一。

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しかし、この計画は尾高惇忠の兄に説得されて失敗してしまう。さらにその後も、あきらめずに倒幕の機会をうかがってはいたのだが、頼みの長州藩がほかの藩にボコボコにやられてしまうと、栄一の心は揺らぎ始める。

 

「倒幕は成功するのかな(汗)」

 

そう思っていると、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の家臣であった平岡円四郎から、幕府へのお誘いの声が。

 

「やあ、こっちのスタッフにならないかい?」

 

「なります!!!!」

 

栄一を裏切り者だと思うか?

 

しかし当時の思想の勢力としては、幕府と倒幕はフィフティーフィフティであった。どっちに付いてもおけまる、そんな風潮があったのだ。栄一は幕府側の道をとった。そしてが26歳の時に慶喜が将軍となり、栄一は幕臣に昇格した。ここに、合理的に人生を選択せんとする栄一の人生観が見て取れることを、我々は知らなければならない。

 

 

3 フランスで修業

「フランスへ行く」と言えば、今では「料理か語学を身に着けたいのかな?」と思うのが普通だ。しかし、栄一はそうではない。

27歳の時、パリ万博の使節団として赴いた栄一。パリ万博とは、日本が初めて参加した万博であり、後にこの一幕が、日本に多大なる影響を与えることとなる。

栄一は、徳川昭武(慶喜の弟)とともにパリ万博に向かった。なぜ、パリ万博に参加したのか?当時の幕府は、フランスと関係がとても良好であり、当時のフランス皇帝ナポレオン三世から、日本の参加を要請されていたという背景があったからである。

さて、二年間パリに滞在して日本に帰ってくると、既に幕府は大政奉還をしており、時代は江戸から明治に変わっていた。つまり、幕府の権力がオワタになって、当然栄一も、徳川慶喜幕臣ではなくなってしまった。最後、慶喜は栄一にこういう助言をしたという。

 

「これからは、お前の好きな道・やりたいことをやってくれい」

 

その後すぐ、栄一はパリ万博での学びを日本に取り入れる。これが後々、文明開化・西洋化へと道を開いた。

 

 

4 栄一、資本主義のパパになる

渋沢栄一の功績、それは、日本に資本主義をもたらしたことだ。日本に帰国して後、日本初の株式会社(商法会所)を設立した。栄一がパリ万博で一番衝撃を受けたもの、それは株式会社だったという。当時の株式会社といっても、現在のものとあまり変わってはいない。いろいろな人にお金を出資してもらい、みんなの会社を立てて、会社が大きくなったら、みんなに利益を配る。このやり口が気に入った栄一。

さらに、農民にお金を貸す銀行、農具などを売る会社まで設立しては、大成功を収めていく。ちなみに、外国語の「BANK」を「銀行」と訳したのが栄一である。

そんな折、時の総理大臣・大隈重信から声がかかる。

 

「君、パリ万博に行ったことあるんだろ?国が大変だから、政界に入ってよ」

 

当時、政界にいた人々は、薩長土肥と呼ばれる江戸末期に雄藩だった4藩出身者しかいなかったのだが、要は、玉出身の渋沢が政界に入ることは、どえらい出来事であったのだ。はてさてこうして、渋沢栄一は、政界の道に進むのであった。

 

 

5 さらば栄一、そして伝説へ……

渋沢栄一は、大蔵省、租税正に任命される。大蔵省在任中になされたことを挙げればきりがない。郵便制度、廃藩置県、戸籍法、鉄道開業、新貨幣(円)導入、富岡製糸場国立銀行条例、地租改正。

それにもかかわらず、33歳の時、大蔵省をやめる。官僚の人ともめたことが原因だともいわれているが、

 

「これからは、国家の仕事ではなく、民間育成に従事していこう」

 

という積極的な動機もあった。

 

みずほ銀行

王子製紙

東京ガス

KDDI

一橋大学

東京経済大学

帝国ホテル

日本赤十字

 

これらはみな、渋沢栄一が関わっているが、結局渋沢は、実業家を引退するまでの43年間で、500以上の企業の設立、600以上の社会事業貢献に携わってきた。この間、国家や天皇からも「官僚をやってくれ」とスカウトされまくっていたが応じはしなかった。渋沢は、ただ単に企業を作り続けるだけでなく、国のインフラを形成していたのだ。

栄一が実業家時代、彼の理念に「道徳経済合一説」というのがある。資本主義のパパであった栄一だが、彼の目指した資本主義は、自分自身の利潤追求によってのみ決せられるべきものではなく、社会や国のために利潤を追求する上で成り立つ、というものであった。論語』に学んだ幼少の道徳観が、深く栄一に根付いていることを感じさせてくれる。また、そのような資本主義こそが長続きすると、彼は考えていた。現代に生きる実業家も、栄一のように、社会のため、国のために仕事を行えば、必ず大成功すると僕は信じています。

76歳。第一銀行頭取を辞めて、実業家を引退した。しかし、実業家を引退しても、渋沢の勢いは止まることを知らず、門下生の集いである龍門社ができる。そのほかにも、設立した多くの企業が渋沢財閥になったり、ノーベル平和賞候補になったりもした。

そして91歳、直腸ガンで亡くなった。

 

 

余談 新一万円札になった経緯

2024年には、新一万円札の顔になる渋沢栄一。しかしながら、初代造幣局のトップであり、大蔵省として尽力した彼がなぜ今頃、新一万円札に選ばれたのだろうか?それは当時の造幣技術にあったのだが、要は紙幣の偽造を防ぐために、紙幣の人物には髭が多く生えてる人を採用することにしていた。髭があることで、偽造し難くするということである。渋沢栄一をお札の顔にするという提案は、いままでに何度かあったそうだが、栄一は髭を生やしておらず、ツルツルであったので、棄却され続けたのであった。

しかし近時、日本の造幣技術が上がったことで、樋口一葉など、女性も紙幣に採用することができるようになった。そんな時に、

「渋沢、お札の顔行けるじゃん」

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ということで、お札の顔になったのである。