彩発見プロジェクト

ダ埼玉、ク埼玉。武蔵国と呼ばれたのも今は昔。歴史の中に埋もれていった埼玉県。でも、安心してください。埼玉の埋もれた魅力、私たちが掘り返します!!      魅力度くださいたま……

隠れた伝説の男

知られざる伝説f:id:saihakken_pj:20200805190833j:plain

この男を知っているだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに編集者の私はもともと全く知りませんでした笑

(あと銅像の下に書いてあるやんと思った人は、天才です)

 

 

 

答え 井澤弥惣兵衛(いざわ やそうべえ)

この男のちょっとした伝説を語ることにするよ。

 

1.弥惣兵衛伝説

1663年(有力説)、紀伊国名草郡溝ノ口村(現和歌山県海南市野上新立石)で、農家の子として生まれる。

 

8歳の時、河川開発と新田開発の自説を大人たちの前で披露する。また、生家と氏神の野上八幡宮が同じ高さにあったということが理由で、生家から引っ越したと言われている。そのようにして、野上八幡宮よりも低いところに引っ越した。

 

 

 

 

ちなみに

実際行ってみると、あんまり引っ越し前後の家の高さは変わらないそう笑。

 

こういった逸話は、弥惣兵衛の測量の才能や、河川開発の才能を教えてくれ、数理的才能は、

 

 

黒澤山の天狗ドドン

 

 

から教わった、と言う。

 

 

 

 

(なんかかっけぇっす先輩)

 

 

 

 

宗教的感性のあった人物でもある。

成人して以降は、農業土木の専門書や数学の図書を読破し、父に従って治水・利水の実践を積んだ。

 

2.農家から藩士へ!

1690年(27歳)のとき、紀州藩主(徳川光貞)に召し出され、紀州藩になる。士農工商身分制度が確立されていた江戸時代において、例を見ない昇進である。彼はここで、土木技術者として活躍する。

 

 

 

(やっぱり先輩さすがっす!)

 

 

 

しかし、なぜ彼はこのような大躍進を遂げたのか。当時紀州藩では財政難に陥っていたため、農業土木に秀でた弥惣兵衛の評判を聞いて、彼を召したのだという。しかし、弥惣兵衛は紀州の地勢をすべて知り尽くしていたわけではない。だから、1696年に紀州藩内で「利水・治水の達人」で評判の地方巧者、大畑才蔵勝善にあって、力を貸してもらえるようにお願いをする。そして二人は手を組み協力して、藤崎代用水、小田原代用水、亀池などを建設した。

 

弥惣兵衛は指示役であったため、その多くは大畑才蔵の業が光る。見沼代用水建設に役立った、いわゆる紀州流という開発法は、大畑才蔵に影響を受けたと言われている。

 

3.享保の改革と弥惣兵衛

1722年、逼迫した財政状況に対応すべく、幕府は「上米の制」と呼ばれる法令を発した。しかし、米の生産が追い付かなくなることが見越されると、米の収穫増を目指して新田開発が求められるようになった。

 

そこで、当時の将軍、徳川吉宗は弥惣兵衛に声をかける。

 

 

 

 

ざわざわ…

 

 

 

 

なぜ吉宗は、弥惣兵衛を知っていたのか。実は1705年から1716年までの間、吉宗は紀州藩の藩主を務めていたのだ。彼が弥惣兵衛の事を知っていたとしても、不思議ではないだろう。また、弥惣兵衛自身の、河川改修・新田開墾の能力を買っていただろうし、吉宗自身、洗礼や格式にとらわれない政治をする人物でもあったため、農家の出である弥惣兵衛に声がかかったのだ。1723年、弥惣兵衛が60歳の時、旗本になった。

 

4.見沼の地を踏む弥惣兵衛

弥惣兵衛が関東で自ら関わった、大規模新田開発(飯沼新田開発)の最初は1725年、弥惣兵衛62歳の時である。その年の9月、従者を連れて初めて見沼の地に訪れた。その目的は大きく二つあり、一つは見沼の見分、もう一つは、伊奈氏と面会をするというところにあった。

 

 

 

 

(ん?    伊奈氏との面会?)

 

 

 

 

伊奈氏と面会、とは果たしてどういうことか。もともと見沼の地は溜井式の田畑(見沼溜井)であったのだが、この溜井式によって見沼の治水にその名を挙げたのが伊奈一族であった。(この溜井式を関東流と称しておく。)

 

一方弥惣兵衛は用悪分離式の紀州流であり、溜井は干拓して田畑面積を増やすことを計画していた。すなわち、弥宗兵衛がこの見沼の地を開発するということは、伊奈氏が成し遂げた溜井式新田に大幅な手を加えることを意味していたのだ。弥宗兵衛としては、伊奈氏にきちんと許可をもらう、ないしは報告をすることが筋だと考えたようだ。

 

伊奈氏と面会することになった弥宗兵衛。後の話になるが、見沼代用水開削の最中、名主らに対して開削をしないようにと圧力をかけたことが分かっている。つまり面会時、二人の間に合意は見られなかったのだ。

 

でも、伊奈氏との面会の後、弥宗兵衛は氷川女体神社に訪れて、溜井干拓成功を祈願して、万年寺にて一泊した。

 

 

 

 

(大丈夫なのか?笑)

 

 

 

 

5.開削!見沼代用水!

1725年の見沼見分の後、弥宗兵衛は勘定吟味役に抜擢。そしてその二年後の1727年には勘定奉行となった(ただ、1年後には勘定吟味役となる。勘定奉行になるには、年を取りすぎていたのだ。)。そして同年の秋、見沼代用水工事に着手する。

 

 

 

 

だが、この工事の着手に至るまでもひと悶着あった。確かに、見沼溜井が完成してからも深刻な水不足や、隣町との水争いに悩まされていたようであったが、それでも関東流の新田で満足していた者たちからしてみれば、伝統の伊奈流に手を加えることには多少の抵抗があったようである。これ以上悲惨な状況にはなりたくない、おそらくこう思ったであろう。

 

しかし、弥宗兵衛はこの代用水開削案を発表して、見事に説得したのだ。

 

 

 

 

 

(さすが! パチパチ!!)

 

 

 

 

 

したがって、この代用水開削には15の村が協力(17の村は反対)した。また、100町歩を交換条件に3人の町人(しかし後にこの100町歩の場所が定まらず、最終的には江戸の商人であった鯉屋の山口屋藤佐衛門に300町歩が渡った)も、この事業に加わった。このように代用水開削は、村請と町人請けによって急ピッチで開削が始まり、延べ

 

 

90万人 (強い)

 

 

(当時の江戸の人口に匹敵)がこの事業に関わった。

 

 

 

(かなり大規模だね)

 

 

 

 

代用水開削の工法は大きく3つ

・片面崖の「切土・盛土」方式

・平地の「築越

・台地の間を通す「切り通し

 

 

 

これらによって、利根川から芝川まで、長い距離開削するのだが、これをいくらかの距離に区切って分担して開削させたというのだから驚きである。これはつまり、見分の時点で測量に大きな誤差があれば取り返しのつかないことになることを意味する。

 

しかし、弥宗兵衛はほとんど誤差を出さなかったという。この驚異の測量技術は、実は大畑才蔵譲りであった。

 

 

 

 

紀州、おそるべし! ドドン)

 

 

 

 

 

また、開削路の途中では、元荒川・綾瀬川を通過しなければならなかった。そこで、前者に対しては伏越(川の下をくぐる)で、後者には掛戸(川の上に通す)で対応したことも有名。

 

 

 

 

(そんなことできるんだ… すごいな笑)

 

 

 

 

見沼代用水はたったの半年で完成した。1728年の事である。完成した新田の所有権は幕府に帰属し、これを村が買い取るという形をとった。3年間は非課税という約束で買い取った新田は、その代わりに地代徴収という形で賄った。要は、米の収穫が安定するまでは、金銭で払うことができるようにした、ということである。こうして協力した村々は得をした。一方協力しなかった村は……

 

 

 

(あ~あ 可哀想に…)

 

 

 

6.見沼通船掘 代用水が運搬用の水路に様変わり!

さて、この代用水、実は船を通して運搬用の水路に活用できるんじゃないか、という話になる。というのも、この代用水の東端から芝川までそこまで距離が離れておらず、芝川までつなげれば、芝川からは墨田川へとつながって江戸まで至るからだ。しかし、水平距離390mに対して3mの落差を船が通るには急であり、問題であった。

 

 

 

 

(そういうアトラクションあったら楽しそう!)

 

 

 

 

1731年、この問題を解消する形で見沼通船掘は完成した。実際にその動態を確認できるものとしては、

わが国最古の閘門式運河である。

春から秋にかけては水田用の水路として、そして秋から春にかけては運搬用の水路として使い分けるこの水運は、他に例を見ない。そして、この通船掘が完成したのは、1728年から三年後、つまり、地代徴収が終了して、初めて年貢米を見沼新田から納める年である。さっそく代用水に船を通して、江戸までコメを運んだわけだが、弥宗兵衛はここまでを見越していたという。この船の通船権は、新田開発で活躍した高田茂右衛門、鈴木文平の兄弟に、それぞれ与えられた。

 

7.弥宗兵衛、安らかに眠れ

この見沼代用水開削の後も、弥宗兵衛は活躍する。とくに木曾三川分流計画は有名だ。しかし、彩発見プロジェクトとしては、見沼代用水について語ることができたので満足である。また機会があったときにでも話をしたいと思う。

通船堀完成から7年後、1738年に弥宗兵衛は亡くなった。享年75歳。東京都千代田区の心法寺に葬られる。

 

 

 

 

 🌈チーン

 

 

 

 

 

余談1 弥惣兵衛と見沼の龍伝承

『見沼の竜神

大日堂というところで、沼干拓に向けた準備を進めていたある日の晩、美しい女が訪ねてきてこう言った。「99日間、干拓をやめてほしい。その間に住処を別のところに移します。」しかし、次の瞬間その女の姿は見えなくなって、「夢か」と弥惣兵衛は思った。そして、気にも留めずに干拓に取り掛かった。しかし始まると、いろいろと困難があって工事が進まなかった。

そうして1か月あまりの時が経って、弥惣兵衛は病気になって床に臥す日々が続くようになった。そんなある日の晩、例の女が枕元に現れて、「その病気は私が治してあげるから、願いを聞いてくれ」といった。そうして夜が明けると、女はいなくなった。それ以来毎晩、女は現れたが、それにつけて病は回復していった。

それから後しばらくして、ある家来が弥宗兵衛の様子を見ようとふすまを少し開けると、「見るも恐ろしい蛇身の女がおり、らんらんたる目を輝かし、耳まで避けた口から深紅の炎を吐きながら弥宗兵衛の体を嘗め回していた。」驚いた家来は失神した。

明くる朝、弥宗兵衛が家来を起こすと、家来は見たことを話した。さすがに肝を冷やした弥宗兵衛がは、片柳の万年寺に詰所を移した。

その後、工事は平穏に進んだが、その間に、次のようなことが起こっていた。ある葬式の葬列が山門を潜ろうとしたとき、突然暴風雨が吹き荒れて、棺桶が宙に舞ってどっか行ったということがおこったのだとか。人々は、見沼の竜神が弥宗兵衛の仕打ちを怨んでやったことだと語り合った。

 

※この見沼の竜伝承がモデルになって、さいたま市のマスコット「ヌウ」が生まれている。

 

 

 

 

談2 第18回東京オリンピック

東京オリンピックに向けて、東京では飲み水の確保が問題になっていた。そこで大臣は利根川から水を引いてくることを提案する。それは、1.安定した水源と、2.取水口の安定、という面から見てのことであった。しかし、そのためには埼玉県を通過しなければならなかったために、利根川から水を引くのは難しいのでは、という懸念もあった。

しかし結局は、弥宗兵衛と同じ発想によって取水口を決定した。しかもその取水口の位置は、弥宗兵衛が選んだ元入と150mしか変わらない上中条というところだった。そうして、この取水口から代用水を経由して東京まで水を引くことに成功した。

代用水を開削した弥宗兵衛の成果、および18世紀の弥宗兵衛と現代とで相通ずる側面が見られる一幕である。