彩発見プロジェクト

ダ埼玉、ク埼玉。武蔵国と呼ばれたのも今は昔。歴史の中に埋もれていった埼玉県。でも、安心してください。埼玉の埋もれた魅力、私たちが掘り返します!!      魅力度くださいたま……

漫画といえば、この男! 北沢楽天!

 

Dも!(どーも!)

 

皆は漫画、好きですか?僕はそんなに読んだことはないんですけど、『進撃の巨人』『ダイの大冒険(最近アニメリメイクしましたね!)』は読みましたね。あとは、ニコニコ漫画なんかで、いろんな創作漫画を漁って読んでます。

 

そんな"漫画"ですが、今日私たちが"漫画"と呼んでいる"もの"の先駆けは、とある人物にまでそのルーツを辿ることができます。

 

それが今回のタイトルにあるように、北沢楽天さんなのです。彼は、埼玉にとてもゆかりある人物だと言うことができるのですが、この記事では、埼玉の偉人:北沢楽天さんの生涯についてとりあげていきます!

あと、今回は"漫画"ということもあり、漫画成分をブログにちりばめています。是非そこも楽しみながら読んでみてほしいです!

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目次

1.楽天前史

2.絵描きの天才爆誕

3.日本初、漫画で飯を食う男

4.楽天、パリへ行く

5.Rの遺志を継ぐ者

 

 

1.楽天前史

 北沢楽天のルーツ、それは1560年まで遡ります。今の埼玉の地に寿能城という城があり、そこの筆頭家老だったのが北沢直信です。つまり、彼を初代北沢家としているわけです。寿能城は1590年に小田原攻めの際に落城し、北沢直信も亡くなりましたが、血統はその後も続きます。

 1606年、関東郡代伊奈忠次の命令により、寿能城跡を北沢家の屋敷とするようになりました。しかし程なくして、北沢家は伝馬役を仰せつかり、今の氷川参道付近に家を移築(ほんの数百メートル程である)することになります。

 その後1628年、北沢家の屋敷は今の高島屋大宮店の場所(氷川参道から数百メートル程)に更に移築し、ここでおよそ260年、北沢家は代々住んでいくことになるわけです。

 今の高島屋大宮店の屋上には、北沢稲荷が残されています。ここに移築した際に作られたものだそうです。

 さて、時代は明治に入り、明治7年(1874年)のこと。大宮学校が火災となったことによって、北沢家屋敷を仮校舎にするということが決まりました。北沢家は東京神田駿河台へと引越しすることなります。初代北沢家:北沢直信の時から実に315年して、ゆかりの地、大宮を離れることになりました。

 

 

2.絵描きの天才爆誕

引越しから2年経った1876年のこと、ついに"ヤツ"が降臨するッ!

北沢楽天の本名は北沢保次(やすじ)ッ!保次は小学校では絵の成績が特に優れていたそうですが、絵だけじゃあないッ!他の教科も成績は優秀ッ!これが保次クオリティよッ!他の学生なぞ貧弱貧弱ゥ!

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(上の写真の、赤丸で囲ってある人物が北沢保次(楽天))

 

どれェ、1つ子ども時代の保次の話をしよう。

彼は故あって、紀州徳川家の殿様に御目通りをする機会があったのだが、そこで殿様からお題を出された保次は、その絵を描くことになった。そのお題は、「頭巾を脱いだ大黒天」(バァァァァァン!)。保次は、頭巾を頭の後ろから落としてしまっている大黒天の絵を描いたそうです。そして!これが殿様を唸らせたッ!それは絵のうまさということ以上に、頭を隠すことで大黒天に失礼ないようにしたという彼の器量が素晴らかったからだッ!

どうよこの保次クオリティ!芸術の道に進むからといって、他の学問・教養を疎かにしちゃあいけねえぜ!っていう教訓があると思ったね、僕君は。

さて、1890年、保次14歳のときに小学校を卒業しますが、彼が進んだ道は芸術!

 

 

 

かと思いきや‥

 

 

 

 

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だったんですよね。これは父の意向によるところでした。

しかし、翌年には説得して、絵画の道に進むことになりました。それほど、絵画の道に固い決意があったのでしょうね。きっと、保次はこう言ったでしょう。

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かならず絵画の道で親孝行してみせます!そんなことを言ったんじゃないかと思うってばよ!

1892年、保次16歳のとき、洋画家である松室茂剛(しげただ)、通称しげちーに絵を学び、のちには画塾である大幸館で、絵の研鑽を積みます。画塾では、保次の早筆が光ります。

他の人は3週間かけて1枚の絵を描きますが、保次は1週間で1枚描きあげます。

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余った時間は、ポスターや挿絵などを描き、さらなる修行に努めます。保次、お前がナンバーワンだ‥。

1895年、18歳のときに横浜の外国人向け新聞社であるボックスオブキュリオス社(以下ボックス社)に入社。さらに1899年には東京の時事新報社に入り、ボックス社と時事新報社の2足のわらじを履き、社会風刺画などを描きながら、記者としての仕事も務めました。

 

新聞『時事新報』は、福澤諭吉明治15年(1882年)に創刊しましたが、日本初、漫画を掲載した新聞としても有名です。

1902年、入社3年目にして『時事新報』の漫画専用ページ(1ページ)である"時事漫画"を任されます。

 

 

3.日本初、漫画で飯を食う男

1903年頃、保次はついに、"北沢楽天"を称するようになります!そして、時事漫画が好評を博し、"漫画"という言葉が広く周知されることに一役買いました。

1905年、楽天27歳のとき、カラー漫画雑誌『東京パック』を創刊します。

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2号目からは英文、3年目には中文の説明文を挿入するようになりますが、世界を視野に入れていたことがここから窺える。そして、日本初の職業漫画家として楽天が有名なるのも、この頃のことです。

1907年以降、『〇〇パック』という漫画雑誌が次々と現れ、さらには滑稽なことを表す言葉として「パックだね」が流行します。

 

ところで、東京パックという名前、実はたぬきという案もあったらしいですよ。

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1912年、東京パックの発行元である有楽社が、当該雑誌の発行権を譲渡。楽天は「抵当物件にあらず」として、東京パックを引退します。

実はこの頃に、楽天は自分の名を冠した"楽天社"を設立して、漫画雑誌を発刊する。しかし、翌年1913年には廃刊となる。経営の才は持ち合わせていなかったか‥?

しかし、失っても失っても 生きていくしかないんです。どんなに打ちのめされようとも。

それ以降も、『時事新報』にて相撲絵や芝居絵などを描きます。

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当時は実況中継が無かった時代。生で見れなかった人たちにとって、これらの絵はとても大事な娯楽としての役割を果たしました。

 

 

4.楽天、パリへ行く

1921年楽天は45歳となりました。この時から、『時事新報』に掲載されていた時事漫画が、独立した付録となり、4ページの付録『時事漫画』となりました。

この時から、楽天が生み出した個性豊かなキャラクターが生まれました。

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例えば、この4コマに登場する"丁野抜作(1コマ目、中肉中背の男)"という人物は、一晩寝ると忘れてしまうという庶民。ちなみに名前は低能と掛かっています(笑)

今では、キャラクターには一つの性格・個性が与えられているのは当たり前ですが、当時としては新しい発想でした。ある意味、キャラクターに心を吹き込んだといったところでしょうか。まあ、「人は"心"だろーが!」ですからね。また、続き物の連載漫画という体裁も、この『時事漫画』がルーツです。

その他、この『時事漫画』では楽天が実際に欧州を旅して描き送った絵を掲載する"世界漫遊"というコーナー、間違え探しや検証クイズ、などなど、娯楽が詰まった雑誌となっています。

さて、先程紹介したように、実は楽天はヨーロッパ、特にパリへと赴くことになります。その目的は、個展をパリで開くこと、でした。1929年から1年間の旅の中で様々な芸術展に絵を出品しますが、その功労に対してフランス政府から勲章をもらったり、ドイツやオランダ、アラブの国なんかを訪れては絵を描いては、時事新報社へと送りなどしました。

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↑パリの街の様子


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↑チップを求められる楽天


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↑オランダの絵


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↑アラブの絵

 

そして、念願のパリでの個展!

 

は、かないませんでしたがロンドンで個展を実現させました。1930年、日本に戻りますがこの時、楽天54歳のことでした。

 

 

5.Rの遺志を継ぐ者

1932年、楽天時事新報社を退社。以降は新人漫画家育成に力をいれます。しかし、1937年〜45年にかけて、言論弾圧や出版統制の尻目に合います。言っても当時の絵画・漫画は社会風刺が中心で、政府としてはあまり気持ちの良いことではないですからね。しかし、元現職の漫画家が団結して"日本漫画奉公会"を立ち上げ、楽天は会長に就任して、弾圧に屈さぬ姿勢を見せます。

しかし、次にやってきた脅威は東京大空襲‥。楽天宮城県へと疎開することになります。

1848年、楽天72歳のとき、彼は東京ではなく、北沢家ゆかりの地・大宮に、住まいを構えることにしました。そして1955年、楽天脳出血で亡くなります。享年79歳。北沢家累代の墓所、大宮の東光寺に葬られました。

1956年、楽天は大宮市(現さいたま市)の名誉市民第一号となりました。そして、楽天の妻である"いの"さんと、楽天と親交のあった者たちとが団結し、1960年に北沢楽天顕彰会の発起人大会が行われ、64年に東光寺にて発足しました。その流れの中で66年、楽天の住まいをいのさんが献上し、そこに、日本初の公立漫画施設である漫画会館が建てられました。

漫画会館に行くと、当時の楽天の居室を見ることができる。楽天の生きた証を、現代の私たちも見てとることができるのだ……。

 

 

 

最後に、日本の漫画家にむけて、こんな楽天の名言を送ろう。

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それでは、また会いましょうー!サラダバー。