彩発見プロジェクト

ダ埼玉、ク埼玉。武蔵国と呼ばれたのも今は昔。歴史の中に埋もれていった埼玉県。でも、安心してください。埼玉の埋もれた魅力、私たちが掘り返します!!      魅力度くださいたま……

渋沢を感じよう~栄一記念館~

 

埼玉の魅力を掘り起こす!

 

んでもって

また埋めるっっっ!!!!

 

 

ジョークね。

 

 

これが、

 

発見プロジェクト!

 

 

さあて今回も、渋沢栄一ゆかりの地、埼玉県深谷市のリポートをさせていただこうか。

 

ということで、今日紹介するのは~

 

 

渋沢栄一記念館

f:id:saihakken_pj:20200804214741j:plain

 

渋沢栄一記念館は、栄一のゆかりの品々が展示されている場所なんだ。

 

だが、

 

展示場は撮影禁止…

 

トホホギス…

 

 

だから、そこらへんはぜひ皆様の目で確かめてみてほしい。特に、事前に渋沢栄一について学んでおくと尚の事面白いと思います。以下の記事では、渋沢栄一の生涯について書いています。参考にしてみてほしいです。

saihakken-pj.hateblo.jp

 

 

ってことで、

今回は終わり!!

 

 

 

 

 

とでも思っているのかあ?

 

 

 

 

みんな

 

 

 

安心するんだ

 

 

 

 

渋沢栄一記念館には、

もっとすんごいものがあるんだぞい!

 

 

 

 

 

すんごいものとは?

 

 

ヒントを出してあげよう。下の画像をみて、3分間考えてくれ!

f:id:saihakken_pj:20200804214754j:plain

 

 

ちゃんと3分間考えた?

 

 

 

答えがすぐ分かったからと言って、簡単にスクロールしちゃあ駄目だぜ。

 

 

 

もしかしたら、巧妙な罠が仕掛けられているかもしれないよ。

 

 

 

いいかい?

 

 

3分考えたかい?

 

 

 

 

いいだろう。

 

 

 

それは…

 

 

 

 

アンドロイド!!

 

そう!なんと、栄一記念館には渋沢栄一アンドロイドがいるのさ。

 

 

それが、こちら↓

f:id:saihakken_pj:20200804214746j:plain

 

 

やばくない?すごくない?

 

この渋沢栄一アンドロイドは、1億円かけて作られたんですよ。ちゃあんと動くんだぜ、これ。そして、1億もお金かけるなんて、深谷市の懐は”あったか~い”んだなと思ったそこのチミ!

実はこのアンドロイドのお金は、鳥羽博道さん(ドトールコーヒー作った人)の寄付でつくられているんです!1億円を寄付っすか…。

今回、記念館に行ってみたところ、渋沢栄一アンドロイドは「道徳経済合一説」についての授業をしてくれました。10分くらいの授業でしたが、事前に「道徳経済合一説」について知っていないと、少し難しく感じるかもしれない…。だから、内容は結構ガチなのよ。

 

 

 

さて、今回は渋沢栄一記念館について紹介していきました!まあ、展示場を撮影できなかった分だけ話すこともそんなになかったけれど、渋沢栄一のアンドロイドがいること、意外と知られていないんじゃあないか?

我々も、深谷に行く前にいろいろとゆかりの地を調べていたんだけど、アンドロイドがいるなんて、向こうに行って初めて知ったくらいだからねえ。

 

もし、アンドロイドをみたい!一緒に写真を撮りたい!と思ったら、ぜひ行ってみるといいですよ。記念撮影の時間がありますから!

ただ、授業してくれる時の撮影はNG。

なんでだよおおおおおおおおおお!!!!

 

 

f:id:saihakken_pj:20200804214757j:plain

↑ちなみに、記念館の裏手になぜか栄一の銅像がある。入口に置いときゃあ良かったのにね!

 

 

 

 

愉快な過去記事たち↓

saihakken-pj.hateblo.jp

saihakken-pj.hateblo.jp

saihakken-pj.hateblo.jp

 

渋沢を感じよう~誠之堂~

埼玉県の隠れた魅力を引きずりだす!

 

それが、

 

発見プロジェクト!!

 

 

今回も埼玉県深谷市にある、通称「論語の里」と呼ばれる渋沢栄一ゆかりの地に行ってきた報告をさせていただくぞ!

ちなみに、過去の紹介記事はこちら。

saihakken-pj.hateblo.jp

saihakken-pj.hateblo.jp

 

 

さあて、今回は……

 

誠之堂(せいしどう)です!

f:id:saihakken_pj:20200804214856j:plain

 

誠之堂は、渋沢栄一喜寿(77歳)をお祝いして、渋沢栄一が設立に関わった東京第一銀行によって奉献された建物です。めっちゃレンガ造りで、the西洋という感じでシャレていますね。どうせだったら、ここに住みたい。住まわせてくれないかな~。

 

f:id:saihakken_pj:20200804214853j:plain

↑ 右の模様は、「喜寿」って書いてあるんですけど、何となくわかるよね!

 

 

この誠之堂の名前の由来は、『中庸』の中にある「誠者天之道也、誠之者人之道也」(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)からつけたそうです。『中庸』は儒教の経典の一つですが、農民だった渋沢栄一も、幼い頃は儒学を一生懸命勉強していたよね。学問を愛していたのですね。

f:id:saihakken_pj:20200804214854j:plain

↑ 誠之堂の中には、渋沢栄一が使っていた『論語』があります。中を開いてみたかったなあ~。でも、展示品なので触れるのはNG。みんなも気を付けようね!

 

 

さて、

この誠之堂はもともと、東京第一銀行の近く(要するに東京)に作られたんだけど、今は深谷市(要するに埼玉)にあるよね。

 

 

 

 

え?

 

 

 

 

どうしたん?

 

 

 

 

 

そっか!

 

 

 

 

 

家ごと運んだのか!

 

 

 

 

 

って思うじゃん?

 

 

ちがうんだなあ

 

 

 

実はこの誠之堂。一回バラバラにされてるんだよね。つまり、家を分解して運搬し、深谷で再び組み立てたのさ。そう、パズルのようにしてね。

f:id:saihakken_pj:20200804214803j:plain

↑ 見てごらん。レンガの目に不自然な部分があるよねえ。つまり、ここが切断部分ってわけ。

 

 

さて、一見するとシャレオツな西洋(イギリス)風ですが、じっくりと目を凝らしてみると、東洋(日本・韓国・中国)を感じることもできます。なんという贅沢仕様。東洋と西洋が、いまここに相まみえたっっっ!!!

f:id:saihakken_pj:20200804214831j:plain
↑ 例えばこの窓に描かれているステンドガラスは、確かに東洋の民族衣装感がある。韓国のチマチョゴリかな?

 

 

さて、誠之堂の中には渋沢栄一レリーフがあります。

f:id:saihakken_pj:20200804214909j:plain
正面を向いていますね。実はこれ、作られた当初(大正5年)は横に向いていたそうです。3年後に正面に作り替えられてんだとさ。ちなみに、作り直された理由はわかっていない…

まあ僕が思うに、ただの気分なんじゃないかな。

皆も考えてみよう!

 

 

さてさて皆様、今回は渋沢栄一喜寿を記念して作られた誠之堂を紹介していきました!みなさんも是非足を運んでみてください!

ちなみに私達、彩発見プロジェクトが誠之堂に訪れたときは、管理の方にとても感心されてしまいました笑

というのも、若者の多くは、誠之堂の隣にある清風亭を見るんだそう。

 

なぜかって?

 

それはね、

 

 

清風亭は、安室奈美恵の曲のPVに使われていたからなんだってさ。いわゆる、アムラーの聖地なんだそう。だから、若者が来る場合、多くは誠之堂じゃなくて、清風亭を見ていくんだって。

 

「君たちは偉いね」

 

って、管理者のおじさんに褒められてしまったよ。やったぜ。

 

ちなみに、清風亭は東京第一銀行の頭取であった、佐々木勇之助さんの古希(70歳)を祝って建てられたそうです。こちらもきれいな建物なので、ぜひ見学してみてほしい。

 

さて、今回は誠之堂を紹介していきました。次回はどこを紹介しようか。ぜひ楽しみにしていてほしいのである。

ここまで読んでくれたすべての渋沢栄一のファン、通称「シブラー」の皆、ありがとうございました!

f:id:saihakken_pj:20200702235654j:plain

 

 

過去記事は↓

 

saihakken-pj.hateblo.jp

saihakken-pj.hateblo.jp

saihakken-pj.hateblo.jp

 

渋沢を感じよう!~薬師堂~

 

 

さあて、新1万円札と言えば、この男!

 

 

 

渋沢栄一!!!!(どん!!!!!)

 

 

 

てなわけで、今回も渋沢栄一ゆかりの地をご紹介しようかねえ……。

 

 

今回は薬師堂という場所なんですが、これがまた見つけづらいというか、普通に歩いていると十中八九見逃すようなたたずまいなんですね、これが。

 

ひとまず、そのご写真がこちら👇

f:id:saihakken_pj:20200702231326p:plain

 

さてこの薬師堂、尊王攘夷に関わった浪士らを思って作られたものなんですが、石碑に書かれてある文を渋沢栄一さんが考えたんだ。

 

 

え?なぜ浪士のために?

 

 

そう思ったそこのあなた!

 

 

君にはこの記事をプレゼントしよう(余計なお世話)

saihakken-pj.hateblo.jp

 

 

 

さて!

 

 

 

さてさて!

 

 

 

 

薬師堂の紹介はこれで

 

 

 

 

お゛し゛ま゛い゛!!!!!

(どん!!!!!!)

f:id:saihakken_pj:20200702234052j:plain

 

 

 

渋沢成分がもっと欲しい方はこちら!

saihakken-pj.hateblo.jp

saihakken-pj.hateblo.jp

 

渋沢を感じよう!~中の家~

 

 

中の家

 

 

これ、なんて読むでしょうか?

「なかのいえ」じゃあないんだ。

 

 

 

正解は、

 

 

 

 

 

」はどっからきたのよ?

 

 

 

まあ、そんなことは置いておくとして、今回も新1万円札で有名な渋沢栄一ゆかりの地を、再発見していこう!

(ちなみに、前回は青淵公園を紹介しました。)

saihakken-pj.hateblo.jp

 

さてさて、まずは中ん家の正門をご覧いただくとしようかねえ!

f:id:saihakken_pj:20200804172406j:image



 

おお!渋沢を感じる!感じるぞ!(ムスカ大佐風に)

 

 

ここが渋沢栄一が23歳まで過ごしていた「中の家」です。前回紹介した青淵公園の近くにありますが、青淵公園周辺もとい、中ん家周辺は渋沢一族が開拓の一翼を担ったのだそう。ぜひ中ん家を訪れる際は、周辺に建っている家の表札をご覧いただきたい。渋沢を姓に持つ家がたくさんあることに気づくはずですよ。

 

この中ん家では、渋沢栄一の先生兼従兄弟である尾高惇忠が、栄一に一生懸命『論語』を教えていました。論語の教えは、後の渋沢栄一におおきなえいきょうをあたえることになります。この点は、こちらの記事を読んでいただければ分かるはず!

saihakken-pj.hateblo.jp

 

 

さーて、次はいよいよ「中の家」の中に入りましょう!

 

 

 

渋沢を感じよう!~青淵公園~

 

公園の遊具は子供たちの遊び場。

f:id:saihakken_pj:20200607202951p:plain


バスケコートは青年の溜まり場。

f:id:saihakken_pj:20200607203038p:plain

 

遊歩道はおじいちゃんの散歩道。

f:id:saihakken_pj:20200804172306j:image

 

それがここ、青淵公園だ。

f:id:saihakken_pj:20200804172056j:image

 

青淵とは?

 

これは渋沢栄一の雅号、いわばニックネームのようなものだと考えておけばよい。

さて、ここ青淵公園の周りには、渋沢栄一ゆかりの地や、渋沢栄一記念館があります。そして、渋沢栄一の生まれた家【中ん家(なかんち)】も、この公園に隣接しています。

青淵」とは、この渋沢栄一の生家の下にがあったからと言われていますが……

f:id:saihakken_pj:20200804172144j:image

じゃあ、はどこからきたんだろう(笑)

 

この渋沢栄一のニックネームを考えたのは、栄一の先生であり従兄弟でもあった、尾高惇忠(じゅんちゅう)という人物。

f:id:saihakken_pj:20200607203648p:plain

栄一は、尾高惇忠が亡くなって後、この人の記念碑を立てました。それぐらい彼を慕っていたんです。

 

そして、せっかくだからあまり語られない部分についても触れておきましょうかね。ここ青淵公園には、桜植樹記念碑というのがあります。

f:id:saihakken_pj:20200804172215j:image

栄一は、人間が死ぬときの姿と、桜が散るようすを重ね合わせたといいますが、とにかく栄一は桜を愛していたことが分かります。実は、栄一のゆかりの地の一つに諏訪神社という場所があります。この諏訪神社の隅っこの方の目立たないところに、天皇即位を祝う桜があります。なぜ桜を植えたのか?渋沢栄一さんが桜を愛していたことと関係がないわけがないですよね!

 

さて、今回は青淵公園を紹介していきました。これからも渋沢栄一に関するいろんな所を紹介していきたいと思います!それでは次回をお楽しみに~。

 

 

渋沢栄一の生涯についてはこちら↓

saihakken-pj.hateblo.jp

しぶとく生きた、渋沢栄一

 

 

「埼玉県深谷市

 

 

と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?

 

 

まあ、せいぜい「ねぎ」がいいところであろうか……。いや、そもそも「深谷ねぎ」って、全国的に知られているのかな?そうでないとしたら、もはや深谷市と聞いても、何も思い浮かべられない人が大半であったろう。

 

しかしだ。

 

もう、その時代は終わる(笑)

 

渋沢栄一

f:id:saihakken_pj:20200522184903p:plain

埼玉県深谷市に生まれた、稀代の実業家。そして何よりも、新一万円札になることが決まっている人物。

 

これからは、一万円札の事は、「諭吉」じゃなくて、「栄一」になるということだね。

 

違和感(笑)

 

今日は、この埼玉の誇りであり日本の宝、渋沢栄一の生涯を追ってみたいと思う。

 

 

 

目次

1 vs父

2 vs幕府

3 フランスで修業

4 栄一、資本主義のパパになる

5 さらば栄一、そして伝説へ……

余談 新一万円札になった経緯

 

 

 

1 vs父

 

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

 

栄一は江戸末期、榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)で生まれた。「血洗島」というと、血に染められたヤバイところだと思うかもしれないが、全くそんなことはない。栄一の実家は藍染めと、その原材料の売買により、生計を立てていた。

さて、栄一が13歳の時、祖父と””に行った時のこと。栄一は、藍の目利きバトルを祖父に申し込む。

「さあ、ぼくと、目利きで勝負しませう。」

栄一は勝った。

この一幕が、彼の商才と頭の良さをよく表している。

 

 

2 vs幕府

幼いころから勉学にも励んでいた栄一。特に論語』は愛読書であったそうだ。

さて、栄一が17歳の時のこと。農家出身が原因で差別にあったり、理不尽な目にあった。というのも当時、勉学は農民がするものであるというものではなかったからだ。この一件では渋沢は、当時の江戸の身分制度が間違っていることを思い、幕府に対して、反感を持つようになる。

 

「こんな制度ない方がましだぜ(怒)」

 

そして21歳の時、従兄弟である尾高淳忠の影響で勤労志士と交流する。この尾高淳忠が、栄一の人生のキーマンとなる。また、江戸に出てきたのはこの時であった。

さらに二年が経った。栄一は、倒幕の要・横浜の焼き討ちを志士たちと計画する。当時、長州藩に援助したかった栄一らは、横浜にある高崎城という城を乗っ取りたかったのである。この時にはもうすでに、ゴリゴリの討幕の志士だった栄一。

f:id:saihakken_pj:20200522184244p:plain
しかし、この計画は尾高惇忠の兄に説得されて失敗してしまう。さらにその後も、あきらめずに倒幕の機会をうかがってはいたのだが、頼みの長州藩がほかの藩にボコボコにやられてしまうと、栄一の心は揺らぎ始める。

 

「倒幕は成功するのかな(汗)」

 

そう思っていると、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の家臣であった平岡円四郎から、幕府へのお誘いの声が。

 

「やあ、こっちのスタッフにならないかい?」

 

「なります!!!!」

 

栄一を裏切り者だと思うか?

 

しかし当時の思想の勢力としては、幕府と倒幕はフィフティーフィフティであった。どっちに付いてもおけまる、そんな風潮があったのだ。栄一は幕府側の道をとった。そしてが26歳の時に慶喜が将軍となり、栄一は幕臣に昇格した。ここに、合理的に人生を選択せんとする栄一の人生観が見て取れることを、我々は知らなければならない。

 

 

3 フランスで修業

「フランスへ行く」と言えば、今では「料理か語学を身に着けたいのかな?」と思うのが普通だ。しかし、栄一はそうではない。

27歳の時、パリ万博の使節団として赴いた栄一。パリ万博とは、日本が初めて参加した万博であり、後にこの一幕が、日本に多大なる影響を与えることとなる。

栄一は、徳川昭武(慶喜の弟)とともにパリ万博に向かった。なぜ、パリ万博に参加したのか?当時の幕府は、フランスと関係がとても良好であり、当時のフランス皇帝ナポレオン三世から、日本の参加を要請されていたという背景があったからである。

さて、二年間パリに滞在して日本に帰ってくると、既に幕府は大政奉還をしており、時代は江戸から明治に変わっていた。つまり、幕府の権力がオワタになって、当然栄一も、徳川慶喜幕臣ではなくなってしまった。最後、慶喜は栄一にこういう助言をしたという。

 

「これからは、お前の好きな道・やりたいことをやってくれい」

 

その後すぐ、栄一はパリ万博での学びを日本に取り入れる。これが後々、文明開化・西洋化へと道を開いた。

 

 

4 栄一、資本主義のパパになる

渋沢栄一の功績、それは、日本に資本主義をもたらしたことだ。日本に帰国して後、日本初の株式会社(商法会所)を設立した。栄一がパリ万博で一番衝撃を受けたもの、それは株式会社だったという。当時の株式会社といっても、現在のものとあまり変わってはいない。いろいろな人にお金を出資してもらい、みんなの会社を立てて、会社が大きくなったら、みんなに利益を配る。このやり口が気に入った栄一。

さらに、農民にお金を貸す銀行、農具などを売る会社まで設立しては、大成功を収めていく。ちなみに、外国語の「BANK」を「銀行」と訳したのが栄一である。

そんな折、時の総理大臣・大隈重信から声がかかる。

 

「君、パリ万博に行ったことあるんだろ?国が大変だから、政界に入ってよ」

 

当時、政界にいた人々は、薩長土肥と呼ばれる江戸末期に雄藩だった4藩出身者しかいなかったのだが、要は、玉出身の渋沢が政界に入ることは、どえらい出来事であったのだ。はてさてこうして、渋沢栄一は、政界の道に進むのであった。

 

 

5 さらば栄一、そして伝説へ……

渋沢栄一は、大蔵省、租税正に任命される。大蔵省在任中になされたことを挙げればきりがない。郵便制度、廃藩置県、戸籍法、鉄道開業、新貨幣(円)導入、富岡製糸場国立銀行条例、地租改正。

それにもかかわらず、33歳の時、大蔵省をやめる。官僚の人ともめたことが原因だともいわれているが、

 

「これからは、国家の仕事ではなく、民間育成に従事していこう」

 

という積極的な動機もあった。

 

みずほ銀行

王子製紙

東京ガス

KDDI

一橋大学

東京経済大学

帝国ホテル

日本赤十字

 

これらはみな、渋沢栄一が関わっているが、結局渋沢は、実業家を引退するまでの43年間で、500以上の企業の設立、600以上の社会事業貢献に携わってきた。この間、国家や天皇からも「官僚をやってくれ」とスカウトされまくっていたが応じはしなかった。渋沢は、ただ単に企業を作り続けるだけでなく、国のインフラを形成していたのだ。

栄一が実業家時代、彼の理念に「道徳経済合一説」というのがある。資本主義のパパであった栄一だが、彼の目指した資本主義は、自分自身の利潤追求によってのみ決せられるべきものではなく、社会や国のために利潤を追求する上で成り立つ、というものであった。論語』に学んだ幼少の道徳観が、深く栄一に根付いていることを感じさせてくれる。また、そのような資本主義こそが長続きすると、彼は考えていた。現代に生きる実業家も、栄一のように、社会のため、国のために仕事を行えば、必ず大成功すると僕は信じています。

76歳。第一銀行頭取を辞めて、実業家を引退した。しかし、実業家を引退しても、渋沢の勢いは止まることを知らず、門下生の集いである龍門社ができる。そのほかにも、設立した多くの企業が渋沢財閥になったり、ノーベル平和賞候補になったりもした。

そして91歳、直腸ガンで亡くなった。

 

 

余談 新一万円札になった経緯

2024年には、新一万円札の顔になる渋沢栄一。しかしながら、初代造幣局のトップであり、大蔵省として尽力した彼がなぜ今頃、新一万円札に選ばれたのだろうか?それは当時の造幣技術にあったのだが、要は紙幣の偽造を防ぐために、紙幣の人物には髭が多く生えてる人を採用することにしていた。髭があることで、偽造し難くするということである。渋沢栄一をお札の顔にするという提案は、いままでに何度かあったそうだが、栄一は髭を生やしておらず、ツルツルであったので、棄却され続けたのであった。

しかし近時、日本の造幣技術が上がったことで、樋口一葉など、女性も紙幣に採用することができるようになった。そんな時に、

「渋沢、お札の顔行けるじゃん」

f:id:saihakken_pj:20200522184150p:plain

ということで、お札の顔になったのである。