彩発見プロジェクト

ダ埼玉、ク埼玉。武蔵国と呼ばれたのも今は昔。歴史の中に埋もれていった埼玉県。でも、安心してください。埼玉の埋もれた魅力、私たちが掘り返します!!      魅力度くださいたま……

しぶとく生きた、渋沢栄一

 

 

「埼玉県深谷市

 

 

と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?

 

 

まあ、せいぜい「ねぎ」がいいところであろうか……。いや、そもそも「深谷ねぎ」って、全国的に知られているのかな?そうでないとしたら、もはや深谷市と聞いても、何も思い浮かべられない人が大半であったろう。

 

しかしだ。

 

もう、その時代は終わる(笑)

 

渋沢栄一

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埼玉県深谷市に生まれた、稀代の実業家。そして何よりも、新一万円札になることが決まっている人物。

 

これからは、一万円札の事は、「諭吉」じゃなくて、「栄一」になるということだね。

 

違和感(笑)

 

今日は、この埼玉の誇りであり日本の宝、渋沢栄一の生涯を追ってみたいと思う。

 

 

 

目次

1 vs父

2 vs幕府

3 フランスで修業

4 栄一、資本主義のパパになる

5 さらば栄一、そして伝説へ……

余談 新一万円札になった経緯

 

 

 

1 vs父

 

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

 

栄一は江戸末期、榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)で生まれた。「血洗島」というと、血に染められたヤバイところだと思うかもしれないが、全くそんなことはない。栄一の実家は藍染めと、その原材料の売買により、生計を立てていた。

さて、栄一が13歳の時、祖父と””に行った時のこと。栄一は、藍の目利きバトルを祖父に申し込む。

「さあ、ぼくと、目利きで勝負しませう。」

栄一は勝った。

この一幕が、彼の商才と頭の良さをよく表している。

 

 

2 vs幕府

幼いころから勉学にも励んでいた栄一。特に論語』は愛読書であったそうだ。

さて、栄一が17歳の時のこと。農家出身が原因で差別にあったり、理不尽な目にあった。というのも当時、勉学は農民がするものであるというものではなかったからだ。この一件では渋沢は、当時の江戸の身分制度が間違っていることを思い、幕府に対して、反感を持つようになる。

 

「こんな制度ない方がましだぜ(怒)」

 

そして21歳の時、従兄弟である尾高淳忠の影響で勤労志士と交流する。この尾高淳忠が、栄一の人生のキーマンとなる。また、江戸に出てきたのはこの時であった。

さらに二年が経った。栄一は、倒幕の要・横浜の焼き討ちを志士たちと計画する。当時、長州藩に援助したかった栄一らは、横浜にある高崎城という城を乗っ取りたかったのである。この時にはもうすでに、ゴリゴリの討幕の志士だった栄一。

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しかし、この計画は尾高惇忠の兄に説得されて失敗してしまう。さらにその後も、あきらめずに倒幕の機会をうかがってはいたのだが、頼みの長州藩がほかの藩にボコボコにやられてしまうと、栄一の心は揺らぎ始める。

 

「倒幕は成功するのかな(汗)」

 

そう思っていると、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の家臣であった平岡円四郎から、幕府へのお誘いの声が。

 

「やあ、こっちのスタッフにならないかい?」

 

「なります!!!!」

 

栄一を裏切り者だと思うか?

 

しかし当時の思想の勢力としては、幕府と倒幕はフィフティーフィフティであった。どっちに付いてもおけまる、そんな風潮があったのだ。栄一は幕府側の道をとった。そしてが26歳の時に慶喜が将軍となり、栄一は幕臣に昇格した。ここに、合理的に人生を選択せんとする栄一の人生観が見て取れることを、我々は知らなければならない。

 

 

3 フランスで修業

「フランスへ行く」と言えば、今では「料理か語学を身に着けたいのかな?」と思うのが普通だ。しかし、栄一はそうではない。

27歳の時、パリ万博の使節団として赴いた栄一。パリ万博とは、日本が初めて参加した万博であり、後にこの一幕が、日本に多大なる影響を与えることとなる。

栄一は、徳川昭武(慶喜の弟)とともにパリ万博に向かった。なぜ、パリ万博に参加したのか?当時の幕府は、フランスと関係がとても良好であり、当時のフランス皇帝ナポレオン三世から、日本の参加を要請されていたという背景があったからである。

さて、二年間パリに滞在して日本に帰ってくると、既に幕府は大政奉還をしており、時代は江戸から明治に変わっていた。つまり、幕府の権力がオワタになって、当然栄一も、徳川慶喜幕臣ではなくなってしまった。最後、慶喜は栄一にこういう助言をしたという。

 

「これからは、お前の好きな道・やりたいことをやってくれい」

 

その後すぐ、栄一はパリ万博での学びを日本に取り入れる。これが後々、文明開化・西洋化へと道を開いた。

 

 

4 栄一、資本主義のパパになる

渋沢栄一の功績、それは、日本に資本主義をもたらしたことだ。日本に帰国して後、日本初の株式会社(商法会所)を設立した。栄一がパリ万博で一番衝撃を受けたもの、それは株式会社だったという。当時の株式会社といっても、現在のものとあまり変わってはいない。いろいろな人にお金を出資してもらい、みんなの会社を立てて、会社が大きくなったら、みんなに利益を配る。このやり口が気に入った栄一。

さらに、農民にお金を貸す銀行、農具などを売る会社まで設立しては、大成功を収めていく。ちなみに、外国語の「BANK」を「銀行」と訳したのが栄一である。

そんな折、時の総理大臣・大隈重信から声がかかる。

 

「君、パリ万博に行ったことあるんだろ?国が大変だから、政界に入ってよ」

 

当時、政界にいた人々は、薩長土肥と呼ばれる江戸末期に雄藩だった4藩出身者しかいなかったのだが、要は、玉出身の渋沢が政界に入ることは、どえらい出来事であったのだ。はてさてこうして、渋沢栄一は、政界の道に進むのであった。

 

 

5 さらば栄一、そして伝説へ……

渋沢栄一は、大蔵省、租税正に任命される。大蔵省在任中になされたことを挙げればきりがない。郵便制度、廃藩置県、戸籍法、鉄道開業、新貨幣(円)導入、富岡製糸場国立銀行条例、地租改正。

それにもかかわらず、33歳の時、大蔵省をやめる。官僚の人ともめたことが原因だともいわれているが、

 

「これからは、国家の仕事ではなく、民間育成に従事していこう」

 

という積極的な動機もあった。

 

みずほ銀行

王子製紙

東京ガス

KDDI

一橋大学

東京経済大学

帝国ホテル

日本赤十字

 

これらはみな、渋沢栄一が関わっているが、結局渋沢は、実業家を引退するまでの43年間で、500以上の企業の設立、600以上の社会事業貢献に携わってきた。この間、国家や天皇からも「官僚をやってくれ」とスカウトされまくっていたが応じはしなかった。渋沢は、ただ単に企業を作り続けるだけでなく、国のインフラを形成していたのだ。

栄一が実業家時代、彼の理念に「道徳経済合一説」というのがある。資本主義のパパであった栄一だが、彼の目指した資本主義は、自分自身の利潤追求によってのみ決せられるべきものではなく、社会や国のために利潤を追求する上で成り立つ、というものであった。論語』に学んだ幼少の道徳観が、深く栄一に根付いていることを感じさせてくれる。また、そのような資本主義こそが長続きすると、彼は考えていた。現代に生きる実業家も、栄一のように、社会のため、国のために仕事を行えば、必ず大成功すると僕は信じています。

76歳。第一銀行頭取を辞めて、実業家を引退した。しかし、実業家を引退しても、渋沢の勢いは止まることを知らず、門下生の集いである龍門社ができる。そのほかにも、設立した多くの企業が渋沢財閥になったり、ノーベル平和賞候補になったりもした。

そして91歳、直腸ガンで亡くなった。

 

 

余談 新一万円札になった経緯

2024年には、新一万円札の顔になる渋沢栄一。しかしながら、初代造幣局のトップであり、大蔵省として尽力した彼がなぜ今頃、新一万円札に選ばれたのだろうか?それは当時の造幣技術にあったのだが、要は紙幣の偽造を防ぐために、紙幣の人物には髭が多く生えてる人を採用することにしていた。髭があることで、偽造し難くするということである。渋沢栄一をお札の顔にするという提案は、いままでに何度かあったそうだが、栄一は髭を生やしておらず、ツルツルであったので、棄却され続けたのであった。

しかし近時、日本の造幣技術が上がったことで、樋口一葉など、女性も紙幣に採用することができるようになった。そんな時に、

「渋沢、お札の顔行けるじゃん」

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ということで、お札の顔になったのである。